咬む力

cockateil2005-04-11

サミーは咬む力が強い。若鳥のうちは咬み癖のあるオカメインコは多いようだ。すでにTシャツ、木製のお盆など破壊されているものが目に留まるが、それを特に気にしている人はいない。咬み癖を直すには、息を吹きかけたりして気をそらさせると良いらしい。爪はよしと私に被害が出てきているのでそろそろ切ろうと思う。

  • よしの持つ鉛筆をかんで放さないサミー

言葉という厄介な道具

1. 生まれたばかりの赤子はどしゃぶりの感覚入力のシャワーをまず体験する。


2. それが十分になったころ、今までまったく意味のなかった感覚入力(例えばある音)と、自分にとって意味のある行為(もしくは意味)を結びつけはじめる。

  • 例えば、「赤」と聞くと、私たちは瞬時に「あか」とあの赤色を結びつける。しかしこれはただの無意味な連合にすぎず、“あか”が別に“ぷっぴー”であってもいいわけだ。そうすると今頃私たちは「ぷっぴーのポスト」や「ぷっぴー、あお、きいろ」など平気で言っているのだ。これは何もおかしな例ではなく、私たちが“あか”と名前を勝手につけてあの色を呼んでいることと何ら差がない。


3. その結びつきが十分になったころ、意味のある感覚入力だけに注意を向けるというフィルターができ、不必要な他の感覚入力を感じる力が抑制される(もしくはなくなる)。

  • “あか”とあの赤色の連合が十分完成したら、“ぷっぴー”などという音を聞いても赤と何の結びつきも持たない。外国語で赤を意味する単語を無理やり覚えようとしても、その音を聞いて赤の感覚がもてないのと似ている。


4.いったん言葉と意味の結びつきが強くなりすぎてくると、言葉に意味があるように感じてくる。これは、母国語以外の言語の習得が難しくなってくる段階だろう。そうなると、感覚入力から言葉ができているというその起源そのものを忘れる。言葉に踊らされてくる状態である。本当はもっと感じることができるのに、言葉にならないものが感じられなくなってくる。また、言葉にすることによってそう感じたりしてしまう。気をつけなければいけない。それと同時に言葉を正しく使うことによりその効果をうまく利用することができる。


私はあまり積極的に言葉にして考えてこなかった。言葉におかない感覚全てから感じる全体感を使って物事を判断することが多かった。どんなに優れた言葉でも、言葉においた時点で、それは、実際の感じたもの伝えたいものよりも陳腐になると考えていた。画素数を上げるほど実物がそこにあるようにに見えてくる、デジタルカメラの写真に似ているかもしれない(本当は、ピクセルごとに色が塗られている蜂の巣のような絵である)。
さらに気に入らないところは、私たちは一瞬にして全体を認識できるにもかかわらず、言葉に置き換える段階で時間という要素がどうしても関ってくる。どうしてこんなにできの悪い道具を我々は与えられたのか、さらにどうしてこれを使えこなせないくらい我々はできが悪いのか。


浪人時代言葉のつたなさに愛想を尽かし、感覚的な生活に没頭してみた時期があった。動物が自分よりも優っているのではないか、私の感じられなくなったものまでをも感じる力がこれらには残っているのではないか、と感じたのはこの時期である。


今は、その言語の持つつたなさと影響力を分かった上で、自分の心に組み立てられたブロック作品を相手の心にも組み立ててあげることが愛情であり、思いやりであり、正しい言葉の使い方であると感じる。


これはその当時に読んだ本だ。
探究2 (講談社学術文庫) 探究(1) (講談社学術文庫)